2012年5月14日月曜日

お手紙をいただきました。


昨年6月におかみちゃんこと足立が都内にある立教大学でおこなった講演を聞かれたことをきかっけに、銀座での販売会に足を運んで下さったり、RQWの現地の活動にも参加してくださった埼玉県にて現在福祉のまちづくりコーディネーターをされている伊藤さんからのお手紙です。ご本人の了承を得て、掲載させていただきます。


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ともに支えあう福祉のまちづくりをめざして



「えっ? 伊藤さん、今何と言ったの?」
2010年(平成22年)10月のある日、私は当時の勤務先である、東京都東村山市役所の市長室におりました。2点ほど市長に担当業務の報告を行い、最後に私自身のことなのですが、と切り出したのでした。2011年(平成23年)331日付をもって、退職させていただきたい、と。定年を3年前倒ししての、自己都合退職になります。
市長は先ほどの言葉をつぶやくと同時に、目を丸くされました。

理由を聞かれて私は、市長に次のように答えました。「38年間、行政マンとして自分なりに一所懸命に仕事をさせていただきました。でもここ数年間は、なぜか「できない理由」ばかりを考えているような気がしてなりませんでした。お金をかけなくとも、知恵を出せばできることは沢山ある。今一度初心に帰って、ボランティア活動からやり直してみたいのです」と。市長をはじめ、上司や同僚からは何度も慰留されましたが、最終的には私のわがままを聞き入れていただき、円満退職することができました。

退職を半月後に控えた2011年(平成23年)311日の金曜日、午後246分、私の職場を突如として大きな揺れが襲いました。「あ、揺れてる!」職員の誰かがまっ先に声をあげました。初めはすぐに治まるだろうと思っていた職員たちも、だんだんと揺れが大きくなり、長く続く状態の中で悲鳴をあげる職員も出始めました。「腰を低くして、身を守ってください!」私は職員たちに声をかけ、自らも低い姿勢をとりました。揺れが治まると、庁内放送で全員が中庭に避難するよう指示が出されました。私たち管理職は、来庁されていたお客様の誘導にあたりました。

私の職場がある東京都東村山市では、震度5弱でした。

いったい、震源地はどこだったんだろう。携帯電話も繋がらなくなりました。普段は勤務時間中は触ることのない iPhone をポケットから取り出し、twitter に接続してみました。twitter のタイムラインは、いつもと同じように流れていました。「宮城県で震度6」「いや震度7、次々に大震災に関する情報が流れていきます。夕方になると、職場のロビーにあるテレビに人だかりができました。恐るべき映像が流れているのです。それは、大津波が集落を襲う映像でした。

その後管理職は自席待機となり、そして帰宅困難者の方々を公共施設に誘導し、防災備蓄庫から毛布や水、クラッカーなどを配布するために、深夜まで駆けずり回りました。翌週からは、私の住まいがある地域や勤務先で「計画停電」が行われたため、自転車や徒歩で通勤したり、「計画停電」の問い合わせ対応に従事したり、と様々な出来事がありました。このような状況の中、東京電力福島第1原発の事故をはじめ、東日本の広域で想像を絶する事態が次々に発生していることを理解していきました。

そして331日、私は東村山市役所を退職しました。

退職直後は、読書や散歩、庭や玄関周りの掃除、模型工作、図書館通いなど、退職直後の男性の「定番」ともいえるような日常生活を過ごしていました。6月末に、私が住んでいる埼玉県所沢市の市内にある福祉系のNPO団体にお手伝いに入ったことがきっかけとなり、本格的に介護の勉強を始めようと思いました。7月に「ホームヘルパー2級養成講座」の受講を申し込み、8月から10月初めにかけて学校に通いました。12月になると、市内の他の福祉系のNPO団体とも関わりができ、ボランティア活動の行き先が増えました。

こうした活動を積み重ね、私は2012年(平成24年)の元日に年頭の決意を行いました。私自身が「福祉のまちづくりコーディネーター」となり、まずは出来ることから取り組んでみよう、と思い仕事を開始したのです。いろいろな人に出会い、さまざまな事業所を訪問し、たくさんの事を学んでいこうと思い、積極的に行動を開始しました。

このような中で1月中旬に、RQ被災地女性支援センターの足立千佳子さんと連絡が取れて、29日から10日にかけて現地のボランティア活動に夫婦で参加することになりました。

29日(木)は、約350世帯が生活する登米市南方の仮設住宅を訪問しました。ここには隣りの南三陸町から避難されてきた方々が暮らしています。住宅の一角にある集会所では、曜日ごとにプログラムが決められており、この日の午後は編み物教室が行われていました。しばらくの間、全体の様子を眺めていましたが、終了時間も近づいた頃になってようやく、編み物をされている方たちの輪の中に入り、お話を伺うことができました。バラの花に見立てた毛糸のタワシを作っているグループのそばで、ある女性の方は「ホヤも作ったことがあるのよ」と私に話しかけてきました。ホヤは宮城県の名産の海産物です。きっと、大震災の前にはホヤや牡蠣などの海産物がたくさん採れていたのでしょう。編み物を通じてお互いのコミュニケーションが活発に行われ、参加された女性たちの笑顔に、私の方が逆に癒されました。

登米市と南三陸町は協定が結ばれており、この大震災では広域的な支援体制が整えられましたが、そうはいってもまだまだ課題は山ほどあるようです。生活支援員さんたちも一所懸命に活動されていますが、現行の福祉制度の壁に遮られ、思うような活動ができにくい、とのお話も伺いました。今回のように民間のボランティア団体が橋渡し役となって、まちのコミュニティを支援する活動がいかに重要かを、私は身をもって理解することができました。

午後5時すぎには、東松島市小野にある仮設住宅に到着。そこでは100世帯ほどの方たちが生活されています。集会所に到着すると、部屋の一角で鍼治療が行われていました。はるばると京都からボランティアで治療に参加している鍼灸師さんと、アシスタント役のマッサージを担当される女性の方が、治療を施されていました。そして入口に近い一角では、この住宅の自治会長さんが私たちの到着を待ってくださっていました。「お鍋を用意したので、食べてってね」と会長さん。心のこもった手料理を美味しくいただきながら、お話をお伺いしました。「家も何も、みんな流されてしまったけれど、落ち込んでばかりもいられなくて」ということで、住宅に住む女性たちに呼びかけて料理教室を始めたとのこと。そして、これをぜひ読んでくださいと渡されたのが「小野駅前郷プロジェクト」と題された復興プラン。

ヒントは岐阜県の世界遺産・白川郷、だそうです。東松島市小野駅前応急仮設住宅及び、奥松島一帯を対象地に、美しい奥松島、そして現在の姿を伝え、未来をつくるプロジェクトを立ち上げた、とのこと。まずはこの仮設住宅から始めよう、そして全国の人々と手を携えて、奥松島の魅力を伝えたり、特産品の販売もしていきたい……A411ページの企画書には、この仮設住宅に住む人々の思いが満ち溢れています。何もかも津波で流され、失ったものは大きいけれど、私たちがやらねば誰がやるんだ、という気概に満ち溢れている、素晴らしいプランでした。

210日(金)、第2日目の活動は石巻市の開成団地仮設住宅でした。ここでは約1,900世帯が生活されているとのこと。プログラム開始の時間より早く到着した私たちは、開成第4団地の会長さん宅にお邪魔することになりました。「何もかも流されてしまって、命からがら、何とかここで暮らすようになったけれど、自分たちも何かできることをやらなくちゃ、と思って……」と会長さん。RQ被災地女性支援センターから提案があり、女性たちで手仕事を始めて、軌道に乗れば製品を販売ルートに乗せて、ゆくゆくは自分たちで運営するようになりたい、とのことです。集会所に移動し、これまでに手作業で縫った巾着60数点を見せていただきました。お洒落な感覚の布地を上手に組み合わせて、とても素敵な巾着に仕上がっています。この日は成果物の引渡し・確認が行われたあと、手作業で疲れた手や腕、肩を労わるためのマッサージを、参加者全員で体験しました。

手仕事のほうは翌週の火曜日に、また新たな製品の作成から始まるようです。手仕事を通じて仲間が増えていく、震災が縁で、こうして新たな出会いが増えていく。石巻の女性たちにも、夢は徐々に膨らみつつあります。2日間のボランティア体験でしたが、女性たちのたくましさに私の方が背中を押された感じで、勇気と元気をいっぱい貰って帰ることができました。素晴らしい体験をさせていただいた足立千佳子さんとRQ被災地女性支援センターの皆さんに、心より感謝申し上げます。

ところで、なぜ私が「福祉のまちづくりコーディネーター」として活動するようになったのか、ということですが、先ほども申し上げましたように、2012年(平成24年)の元日に次のような決意をしたことによります。

まちづくりには、都市空間や景観などのハードに関わる課題もあれば、少子高齢化社会の中で地域でともに生きる仕組みづくりを考える、ソフトに関する課題も多くあります。これまでは、これらの課題はややもすると別々に議論されがちでしたが、これからの時代はハードとソフトを車の両輪として捉え、総合的に考えて取り組みを進める必要があります。そこで私は、そのためにも「福祉のまちづくりコーディネーター」の仕事を、私自身に与えられた職務として位置づけ、地域福祉の向上をめざしたい、と考えました。一民間人として、どこまでできるかが今後の課題です。具体的には、生活相談や関係機関との連絡調整、講演会などの地域啓発活動など、まずは出来ることから徐々に取り組みを進めていきたいと思っております。

現在は、埼玉県所沢市内にある福祉系のNPOが運営している複数の施設に、それぞれ週に1回程度、ボランティア活動に参加しています。また、所沢市の行政や社会福祉協議会とも頻繁に連絡を取り合い、地域福祉をどう進めていくか、必要に応じて助言をさせていただいております。先日は東京都小平市にある白梅学園大学から講演の依頼があり、地域福祉論の授業の一環として、「ともに支えあう福祉のまちづくり」をテーマに講義を行いました。

RQ被災地女性支援センターの活動は、まさに私がコンセプトとして掲げる「ともに支えあう福祉のまちづくり」の実践例である、と思っております。これからもたくさんのことを教えていただきたいと思いますし、また私自身も微力ではありますが、頑張ってまいりたいと思います。今後ともどうそよろしくお願い申し上げます。

登米市南方町の仮設住宅集会所の掲示物


 伊藤 博

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